土田城址探訪 ’02冬
2月27日。杉花粉の飛散が始まった頃。鳩吹山(岐阜県可児市)の東にある、土田(どた)城址山に登って来ました。気になる山ではあったのですが、これまで情報が少なく、登山道は未整備で荒れており、急峻で廃坑跡などもあって危険ということでちゅうちょしていました。しかし、今回取材することになり、ついに踏み入れたというわけです。時期的にも、草木の繁らない今頃が良いという判断もありました。
登山口は、鳩吹山の大脇登山口から県道を挟んで斜め向かい、大脇公民館という地域の集会所がある場所の横にあります。鳩吹山登山者の指定駐車場にもなっているなので、その登山者なら知った場所かもしれません。ここに「生駒氏三代の居城 土田城址」という大きな石碑の他、城の概略を示した石碑と系図などまで記した木製の看板も建っています。
集会所の横の細い道を入って少し行くと、「古城山めぐり遊歩道概略図」という大きな看板があり、直進の道と右へ上がる道の二手に分かれます。右手が本丸へそのまま続く道との事であり、そちらを選びます。ここからは、急峻な山城を攻め上がる険しい道です。道の左手が切れ落ちて川が見えていたり、崩れ掛かった箇所もあり、少し緊張します。やがて、事前情報で聞いていたクサリ場に出ますが、クサリに頼らずに登れる場所でした。しばらく登ると、本丸といわれる狭いが平になった頂上に到達します。
土田城は中世の山城です。この頃「本丸」という呼称はありませんので、「本曲輪(くるわ)」と言うべきかもしれませんが、「本丸跡」などの看板もありましたし、ここでは本丸としておきます。なお、城といって堅牢な建造物があったわけではなく、比較的簡易な砦のようなものだったのでしょう。この本丸周辺には、人為的に手が加えられたと思われる、曲輪や堀の跡が見受けられます。
本丸西の曲輪からは、正面に鳩吹山がそびえています。この土田城は南北に細長い山の上に築かれていたもので、山にはいくつかの峰があり、それぞれに城の跡が残っています。本丸のあるのは北端の峰で、標高は170m程度。そこから南に行くと、南曲輪のある小さな峰がありますが、本丸との間に「堀切(ほりきり)」の跡が残っています。堀切とは、山城において、尾根を切断するように作られた空堀の事です。これに対し、山の上部から下部にかけてタテに築かれたのが竪堀で、本丸北側にはそうした跡らしきものもありました。
南曲輪をさらに進むと大手曲輪といわれる峰があり、その南東部は、天然の崖になっていました。そこから南を眺めると、この土田城址の最高地点である180mの端正な峰が見えます。ここが中出丸と言われる所です。中出丸まで行くと、さらに南へ進む道と、右手へ行く道と二手に分かれます。右手は下山道で、そちらへ向かいました。
この道は、雑木林の中をジグザグに下る道で、国道41号線の側道まで続いていました。この側道脇に、こちら側の登山口を記す小さな看板が建っています。そこから大脇公民館までは、国道に沿って北へしばらく歩いて戻ります。その途中、右手には土田城址山が見えていますが、なかなか険しい山に見えました。
大脇集会場横まで戻って、今回の山行は終わりです。事前情報では、難路が予想されたわけですが、今回歩いたルートに限って言えば、ほとんどが歩きやすく、道もはっきりしており、しかも看板なども整備されていて、人の手がかかっているという印象でした。他の人には一人も出会いませんでしたが、踏み跡もはっきりしていました。
ところで、今回の登山口に、「左旧東山道」「土田宿〜尾張に至る」などと記された道しるべがありました。古いものではありません。この「旧東山道」が、いわゆる古代の街道のことを意味するのか、だとすれば、「左」というのがどこの事を意味するのか、ちょっと気になりました。確かに、可児地内に古代東山道が通じており、可児駅もあったといわれるのですが、東山道のほとんどがそうであるように、ルート自体は全くはっきりしていないはずです。もしこの近くに明らかな区間があるとすれば、ちょっとした発見ですね。
今回の山行は、自然に親しむというよりは、歴史・文化に触れるという意味合いがあったわけですが、実際にはほとんど自然の姿に戻っており、人為的な部分は、知識が無ければわからない程でした。戦国の世をしのびながらも、初春のほどよい山歩きを楽しめたと思います。
土田城址を北東から見る
左手が中出丸のある峰。右手が本丸のある峰。
その間に、大手曲輪、南曲輪の小さな峰がある。
(2002.3.17 FYAMAPに掲載)